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かんとこうブログ

2024.03.18

考える人、地獄の門、そして太宰

今日のブログは経産省の確報のためにスペースを空けておいたのですが、例月の15日に発表されなかったため、穴があいてしまいました。そこでたまたま週末に訪ねた静岡県立美術館に展示されていたロダンの「考える人」とその「考える人」を含む「地獄の門」のブロンズ、さらにこの「地獄の門」と太宰治について書いてみたいと思います。

以下静岡県立美術館の説明文書から引用しつつ(太字部分が引用箇所)解説します。「考える人」は世界で最も有名な彫刻と言われ、知らない人がいないほどですが、これは実は独立した作品としてつくられたわけではなく、ロダンがフランス政府から依頼された新しい装飾美術館のための門として製作した「地獄の門」の一部を独立させて作品化したものです。「考える人」は地獄の門の中央の上部に位置しています。(下の写真)

この「地獄の門」はダンテの「神曲」を主題とすることが義務付けられていました。「神曲」はキリスト教への信仰を根底とし。「地獄編」「煉獄編」「天国編」の三部からなる長編叙事詩です。もともとダンテの賛美者であったロダンは、「地獄編」に焦点を当て、永遠の罰に苦しむ200人以上の裸体の人物像を様々なポーズで表現しました。1900年ロダンは生前に一度だけ石膏の「地獄の門」を公開しました。しかし発注者に納められず、またブロンズに鋳造されなかったことから未完成のまま残されたとも言えるでしょう。現在世界には、石膏2点、ブロンズ8点の「地獄の門」があります。「地獄の門」のブロンズは、日本では静岡県立美術館のほか東京の国立西洋美術館で見ることができます。

「地獄の門」の「考える人」はそれほど大きくはありません。一般に知られている実際の人間よりもやや大きな像は、この拡大版であり、世界に20体以上存在しています。さらに縮小版も作られていますので、さらにたくさんの「考える人」が存在するわけですが、この静岡県立美術館には、地獄の門のオリジナル版、拡大版、縮小版の3体があり、すべてを見ることができます。「考える人」の拡大版は、ここ以外に京都国立博物館、国立西洋美術館、長島美術館、西山美術館、名古屋市博物館にあります。

座って瞑想にふける、やや憂鬱そうなイメージは過去の美術作品の中で伝統的に表現されてきた詩人ダンテの像と重なります。1888年、コペンハーゲンの展覧会に「詩人」の名で初出品されましたが。翌年、画家モネとの二人展で現在の名前に改められました。上半身をねじったポーズ、筋肉の塊のような肉体、エネルギーの充満した裸体表現は、ダンテという具体的なイメージを超えて、ロダン独自の造形となっています。

さてこの「考える人」と「地獄の門」ですが、静岡県立美術館では、「地獄の門」を展示している床面に、ダンテの「神曲」の「地獄編」にある「地獄の門」の銘文が、原語であるイタリア語、その英語訳と日本語訳が書かれていました。日本語訳は森鴎外はじめ4人の訳が書かれていたのですが、読んでみて一番しっくりときた上田敏の訳を写してきましたので以下に紹介したいと思います。最初は言語と英語訳です。

次は上田敏訳とウイキペディアに載っていた山川丙三郎訳です。

これは言わば門の自己紹介であり、同時に地獄の紹介でもあります。以下ウイキペディアから説明を引用します。

はじめの3行ではこの先の地獄界とそこで繰り広げられる永劫の罰、そして地獄の住人のことを端的に言い表している。次の三行では、地獄が三位一体の神(聖なる威力、比類なき智慧、第一の愛)の創造によるものであることを示している。地獄篇も冒頭の序を除けば33歌から成り、『神曲』自体はおのおの33歌から成る地獄篇・煉獄篇・天国篇の三部から構成されている。このように「3」という数は、三位一体を象徴する聖なる数として、『神曲』の構成全体に貫かれており、極めて均整のとれた幾何学的構成美を見せている。

ここで言う三位一体とは、神、神の子であるイエス、そして教義が一体であるという考え方であり、キリスト教において重要な概念とされています。

さて、ここから太宰治の話になります。上田敏の日本語訳の最初に「こゝすぎて かなしみの都へ」という一文があります。これを読んでどこかで聞いたことがあると思い調べてみました。実はこの一文は太宰治の小説「道化の華」の冒頭の一文「ここをすぎてかなしみの市」として引用されていました。

その昔、怠惰を絵に描いたような生活を送っていた学生時代に読み耽った太宰の小説の中で、新潮文庫の「晩年」に収録されている「道化の華」をはじめとする短編は特に印象深く今でも残像が脳裏に残っていたようです。この「道化の華」は全くの私小説で、心中をもちかけて相手を殺してしまった男の話なのですが、冒頭の一文がダンテの「神曲」の引用であり、それもいずれかの日本語訳から改変したものではないかと考えられているようです。

太宰が参考とした翻訳については、一般的には森鴎外の「こゝすぎてうれへの市に」とされてきましたが、上田敏の「こゝすぎてかなしみの都へ」と「われすぎて愁の市へ」こそが太宰が用いたものではないかという考察が紹介されていました。(「道化の華」の一つの引用 : ダンテ『神曲』「地獄の門」銘文引用に関する翻訳の問題点 渡邉 浩史)

いずれにせよ傷心の太宰が、小説を書くにあたり、自分の罪と、死後の先にあるであろう地獄というものを強く意識していたことを窺わせるものではないかと想像しています。碑文も含めて、静岡県立美術館のロダン館は圧巻の見ごたえでした。

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