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かんとこうブログ

2021.02.24

プルシアンブルーの話 その1 北斎とベロ藍

今日から3日間、プルシアンブルーの話を書きます。プルシアンブルーとはフェロシアン化鉄を主成分とする青色顔料のことです。この顔料は葛飾北斎の『富嶽三十六景』に用いられ一躍脚光を浴びました。

当時この顔料は「ベロ藍」と呼ばれましたが、その名前の由来は「ベルリンの藍」が訛ったものという説が有力です。和名は紺青。このほか、当時ドイツはプロセインだったのでプルシアンブルー、ベルリンで発明されたからベルリンブルー、その後中国で作られたのでチャイナブルー、北斎がつかったため北斎ブルー、鉄の化合物だからアイアンブルー、人名由来のミロリーブルーなど多くの名前があります。

 今日はこの「ベロ藍」と北斎にまつわる話を、明日は、こうしたベロ藍の使用がもたらした「Blue revolution」と当時の顔料事情について、そして最後は、この顔料の化学的な側面と意外な機能性について書くことにします。

北斎とベロ藍については、すでに多くのサイトで紹介されていますので、信頼性の高そうなサイトからの引用で説明をさせてもらいます。まずは、コメントの前になんとも美しい青一色の版画からご覧ください。https://serai.jp/news/294489

冨嶽三十六景』の最初の10作品(初刷)は、青一色の濃淡で摺り上げている。名所絵ブームの火付け役となった傑作だ。葛飾北斎『冨嶽三十六景 甲州石班澤』(すみだ北斎美術館蔵)

藍摺「引用者注:藍摺については、この後で説明します」10枚の中でも最も美しいと言われている。(ピーター・モース・コレクションより)

続いて、このきれいな色彩が誕生した秘密と『冨嶽三十六景』について、すみだ北斎美術館の学芸員五味和之さんのコメントを引用させてもらいます。

北斎のきれいな青色は、もともとは“錬金術”から生まれたものです。18世紀初頭、フリードリッヒ大王時代のプロシアで、“赤い染料を作れ”という王様の命が下り、偶然、青い化学染料ができたのです。まあ、錬金術としては失敗だったわけですが、この青色染料は、いまの時代では主流となった化学染料の走りですね。非常にきれいな青色でしたが、製造法は秘密で、非常に高価だったため、ヨーロッパでもすぐには広まりませんでした。

 やがてそれがオランダにも伝わり、オランダ船で長崎の出島にも運ばれて、“これが最新鋭の青だ”と広まっていくわけですが、価格が高いので絵には使えませんでした。その後、清(中国)でも同じ青が大量生産できるようになって、価格がガクッと下がり、みんなが使える値段になってきた。それで、平賀源内など、北斎の先人たちが、絵に使いはじめました。大阪や京都で新しい青を使う絵師が出てきて、その後、江戸でも使う絵師が出てきた。だんだんと北上していくわけですね。

 ベルリンの藍が、江戸のべらんめい口調「引用者注:原文のママ」でなまってベロ藍(べろあい)と呼ばれるようになるんですね。で、この新しいベロ藍を使って浮世絵(浮世絵)を出そうと考えたのが、当時の版元(はんもと)たちです。有名な版元の西村屋与八が、ベロ藍を使って、新しい企画を考えるんですね。この新しい青を一色で摺ったらきれいだろうな、度肝を抜いてやろう、と考えて、『近々、富士山を描いた10枚程度の浮世絵を出すぞ』と宣伝を打つわけなんですよ。

 なんとこの『富嶽三十六景』は、当初青一色の絵として販売されたようです。このあたりの事情について、今度はアダチ版画研究所のサイトから引用させてもらいます。
https://www.adachi-hanga.com/hokusai/page/know_4 

 当初の36図を「表富士」と呼ぶのに対し、追加の10図は「裏富士」と呼びます。「三十六景」と題しながら、全46図からなるこの揃物は、当時の北斎の人気を物語っているのです。実は「富嶽三十六景」の大ヒットは、北斎の人気だけによるものではありませんでした。出版を手がけた版元・西村永寿堂は、このシリーズに2つの江戸の流行を取り入れています。

1つ目は「鮮やかな青」。当時江戸では、海外から新しく入ってきた青色絵具「ベロ藍」が大流行していました。人々は透明感ある美しい青色「ベロ藍」の登場に熱狂し、この鮮明な青で摺られた浮世絵をこぞって買い求めたのです。

西村永寿堂はこの青に目を付けました。天保21831)年に刊行された、柳亭種彦作「正本製」巻末の「富嶽三十六景」の広告記事を見てみると、「冨嶽三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚に一景づつ追々出板 此絵は富士の形ちのその所によりて異なる事を示す」とあります。

なんと「富嶽三十六景」は当初、藍色の濃淡だけで表現する「藍摺(あいずり)絵」のシリーズとして出版されていたのです。流行色を用いて人々を楽しませようとする意図があったのでしょう。

2つ目は「富士山」。当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰がありました。富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地に造られました。信仰の対象である富士山を描いた浮世絵も、ありがたいものとして市井の人々に受け入れられたのでしょう。

『富嶽三十六景』の大ヒットに秘密は、この「ベロ藍」と「富士山」にあったというわけです。このアダチ版画研究所のサイトには、最初に「藍摺絵」として出版された10枚の例として4枚の写真が掲載されています。この4枚をみて大変驚きました。他のサイトでもこれらの写真が掲載されているのですが、色が全くと言っていいほどに異なっているのです。アダチ版画研究所の4名と同じ4枚をウイキペディアから引用して並べたのが下の図です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF 上の4枚はアダチ版画研究所のサイトに掲載されているもので、初摺かそれに近いものではないかと思われます。下の4枚はウイキペディアに掲載されているもので、わざわざ「作品一覧が、後世の彫摺本なので」と注釈が書かれています。またよく見ると上の4枚には左下隅に落款のようなものが見えますが、下にはそれがありません。

こうして比較してみると、ずいぶん印象が違います。下の4枚もそれだけ見れば十分に美しいのですが、上の4枚と比較すると違いは歴然です。上の絵の青一色の気品のある美しさが際立っています。

この美しい青が「ベロ藍」であることは、分析によって同定されています。これもネットからの引用でご紹介します。

「ベロ藍」が『富嶽三十六景』で使用されたことは、吉備国際大学名誉教授・下山進氏と礫川浮世絵美術館館長の故・松井英男氏の共同研究の中で蛍光X線分析によって証明されました。葛飾北斎はそれ以後の風景画の連作にもベロ藍を多用しています。
https://intojapanwaraku.com/art/1759/  

今日はここまで北斎と「ベロ藍」についてご紹介してきました。「富嶽三十六景」の大成功には、「ベロ藍」が大きな役割を果たしてきたことがおわかりいただけたと思います。最後に「ベロ藍」の蛇足として、下の4枚の版画の写真を見てください。

これは実は我が家にある『富嶽三十六景』の写真です。読売新聞の企画「額絵シリーズ」として平成2年から3年にかけて販売・配布されたものです。左の2枚と右の2枚を比べると明らかに色調が違うことがお分かりいただけると思います。また落款の有無も違います。さすがに、初摺(もしくは初摺に近いもの)だけで三十六景全部を集めることができなかったと思われます。この我が家の『富嶽三十六景』は、実家を整理するときに持って帰ってきて以来時々眺めてはいたのですが、今まで全くこのことに気が付きませんでした。今後『富嶽三十六景』をご覧になるときには、色調にも注意してみていただくとより興味が深くなるかもしれません。「藍摺十枚」と呼ばれ、ほとんど青一色で摺られているのは以下の十枚です。「相州七里浜」「甲州石班澤」「武揚佃島」「信州諏訪湖」「駿州江尻」「相州梅沢左」「遠江山中」「常州牛堀」「甲州三嶌越」「東都浅艸本願寺」

 明日は、ベロ藍の使用がもたらした「Blue revolution」と当時の顔料事情について書きます。

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