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かんとこうブログ

2021.02.25

プルシアンブルーの話 その2 Blue revolution と当時の顔料事情

今日ご紹介する内容は、おなじみの元関西ペイントの中畑顕雅氏から紹介してもらった文献の引用が中心になります。“Hokusai and the Blue Revolution in Edo Prints”(北斎と江戸時代の(浮世絵や錦絵その他の)版画における青色革命)というタイトルの資料です。著者は、コロンビア大学のWeatherhead East Asian Instituteの教授であるHenry D Smith IIで、専門はアジア・日本の歴史です。(下記URL
https://academiccommons.columbia.edu/doi/10.7916/d8-hxn2-xg81

さあそれでは、「ベロ藍」ことプルシアンブルーがもたらした「革命」の様子を見ていきましょう。

 「ベロ藍」はベルリンで発明され、オランダや中国を経て日本に伝わった合成物です。昨日も触れましたが、赤い色を作るつもりだったのに青ができてしまったという話なのですが、この時作ろうとしていた赤い色とは、コチニールでした。コチニールとは中南米のサボテンに住むカイガラムシのことで赤い色素が取れることから珍重されていました。
1704-1706年に発明され、1720年までにはヨーロッパに広まり、その後新世界へと伝わり、オランダまたは中国を経て日本にきました。日本における使用については1763年に平賀源内が遺した記録があります。1778年に秋田の佐竹藩の藩校で使用された記録もあるそうです。

 本文献の筆者は1765年から1868年、すなわち江戸後期から明治維新までの間におきた日本の美術における青い色に関する変化と進歩を“Blue revolution”と呼んでおり、それは輸入された顔料がもたらしたものであるとしています。それでは時を戻して、「ベロ藍」が入ってくる前の日本では、どのような材料が青色として使用されていたのでしょうか?

 代表的なものは二つです。ひとつは「つゆ草」の花、もうひとつは「藍=たで藍:インジゴ」です。「つゆ草」は、花のしぼり汁を具典帖(ぐてんじょう:良質のコウゾを原料にした薄く手すきした和紙)にしみこませた藍紙として広く使用されていました。ただ、水に溶けやすく、光にも敏感なので、色が変化しやすく、濃色もできないといったように色材としての適性は限定されていました。
「藍」は、植物のたで科の藍などからとれる天然物で合成インジゴとは異なります。当時天然原料による染色用の藍の値段が高かったため一般には使用されず、藍染めの古い衣服から抽出するといった手間のかかる作業が必要であり、大量に使用するのは困難でした。「つゆ草」ほどではないにしても、光の影響を受けやすく、灰色味のある緑色に変化してしまうのも課題でした。ところがこの藍、文政年間に大進歩をとげ、「ベロ藍」と見まがうほどの美しさを見せるようになります。その代表例を下にしめします。

歌川国貞 「木母寺暮雪」

 

本文献の筆者をして、「“Blue revolution”の第一段階を担った」と言わさしめています。

 この「藍」にとって代わったのが「ベロ藍」です。この「ベロ藍」という名前ですが、藍色というだけで、植物の藍もインジゴも関係がありません。また北斎の「富嶽三十六景」の最初の10枚を「藍摺十枚」と呼んでいますが、これも藍色の十枚という意味であり、藍を使って摺り上げたという意味ではありません。

 「ベロ藍」は、最初狂歌や俳諧などで使用され,そののちに扇子へと用途が広がり、1829年に最初に版画に使用されました。当初は風景画から始まり、あらゆるジャンルに広がっていきましたが、その触媒となったのが北斎の「富嶽三十六景」であると書かれています。
この1830年頃に「ベロ藍」に関して大きな変革点がありました。この時何が起きたのか?それを教えてくれるのが、一枚の表です。長崎を通じてオランダまたは中国から日本に輸入されて「ベロ藍」の量と価格を記録した表が存在しているのです。

 この表を年代順にずっと見ていくと、最初はオランダ経由が多かったものが、途中から中国からの輸入が多くなります。この変化点は1826年で、それまでとはけた違いの量が輸入されています。もう一つ大きく変わったものがあります。それは値段です。1825までは例外を除き、中国からもオランダからでも同じような値段でした。それがこの年を境に、中国からの値段が大きく下がったのです。これは中国でも生産されるようになったためであり、その後は一貫してオランダ品に対して価格的優位性を保持し続けます。

 その後も中国からの「ベロ藍」は、増え続け、最盛期には56,103斤(1斤=600gとして約33.6トン)ものベロ藍が輸入されています。値段も量の増加とともに下がり最安値は113匁となりました。この時代の1匁の価値ですが、1両=銀60匁でした。1両は今の時代に直すと1030万円というのが私の敬愛する作家上田秀人氏の説ですのでそれを採用すると、1匁は、1700円~5000円ということになります。600gが約2~6万円です。高くはありますが、手の届かない値段ではないですね、なにせ最も値段が高かったのはこの40倍ほどしていましたので。この大幅なコストダウンが「ベロ藍」の普及を促したのは間違いありません。

 こうして「ベロ藍」は江戸の版画文化に青の大革命をもたらしたのでした。

 「ベロ藍」より以前にも、鉱物起源の顔料として「岩群青」と「花紺青」が存在していましたが、版画に使われることはほとんどありませんでした。理由は、粒子が粗く版画をきれいに摺りあげることができなかったこと、および価格が使用を禁じざるを得ないほど高かったことです。

 ところで、この「ベロ藍」の現代の顔料名は「紺青」です。今出てきた「岩群青」と「花紺青」さらには「群青」というものもありますが、全くの別物です。念のために「藍」や「インジゴ」も含めて整理しておきます。本当にややこしいですね。

 天然群青(画材):(和名 瑠璃)青金石、ラピスラズリ、ウルトラマリン
(古代、現代で変わらず)
群青(現代顔料): 合成ウルトラマリン、Pigment Blue 29
岩群青※(日本画の画材):アズライト、藍銅鉱
紺青※(現代顔料):ミロリーブルー(カリ紺青またはアンモニア紺青、Pigment Blue 27
花紺青(画材):スマルト。エジプト時代からあるコバルト系の材料
藍(天然):蓼藍(タデ科の植物)などから作られる天然染料。化学的にはインジゴ。
ジーンズの染色が有名
インジゴ(合成藍):19世紀末にバイヤーによって合成法が発見されBASFによって
工業生産された。「C.I. Vat Blue 1」および「C.I. Pigment Blue 66
     「岩群青」も同じく「紺青」と称されることがあり、この場合に間違いを避けるため、プルシアンブルーを「花紺青」と呼ぶ場合がある。ただし本来の「花紺青」はスマルトである。

さて、視点が変わり化学の話になります。「ベロ藍」こと「プルシアンブルー」は濃青色の錯体であり、化学的な名称はヘキサシアニド鉄(II)酸鉄(III)、フェロシアン化鉄()、フェロシアン化第二鉄などと呼ばれます。明日は、この「ベロ藍」の化学的性質と最近注目されている機能性材料への応用について書きます。

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